「近江八景」とわたし 黒崎彰
八景の美術と文芸
江戸時代の狩野派、土佐派や円山応挙が取り上げ、近くは横山大観、今村紫紅らが描いた数多くの傑作「近江八景」図は、木版画によっても優れたシリーズが生まれました。その代表的な作品といえば、まず天保期の錦絵時代に安藤広重が制作し、大正期新版画時代に伊東深水が描いた「近江八景」、よく知られるこれら二つの組み物版画をおいて、他に例は見当たらないといえるでしょう。
画家や版画家の心を捉えて放さない著名なこの主題は、1500年頃関白近衛政家によって詠まれた歌からはじまると伝え、「堅田落雁」、「矢橋(やばせ)帰帆」、「瀬田夕照(せきしょう)」、「石山秋月」、「粟津晴嵐(せいらん)」、「唐崎夜雨」、「比良暮雪」、「三井晩鐘」と、琵琶湖湖南地方の八景が選ばれています。とはいえ、「近江八景」はもともと十一~十二世紀頃に中国で詩や画題として定着した「瀟湘(しょうしょう)八景」になぞらえ案出されたもので、湖南省洞庭湖近くの景勝地、瀟水、湘水地方から選んだ八景、つまり「平沙落雁」、「遠浦帰帆」、「漁村夕照」、「洞庭秋月」、「山市晴嵐」、「瀟湘夜雨」、「江天暮雪」、「煙寺晩鐘」にもとづくものでした。このように季節や天候、物象と時間、日々の生活と自然などをたくみに織り込んだ八つのテーマは、文芸や美術の表現において、まことに魅力にあふれた主題ともなりました。
たとえば、近江湖南にて俳聖松尾芭蕉が詠んだ数ある句の中に、よく知られた次のような名句があります。
「行く春や近江の人と惜しみける」
「山路来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)」
芭蕉は著作「奥の細道」、「野ざらし紀行」が語るように、全国津々浦々を旅する漂泊の詩人でした。しかしながら彼と湖南の地との関係は深く、石山寺近くの幻住庵、粟津義仲寺の木曽塚草庵に住み、そこでたび重なる句会を催し、さらには大阪で「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んだ生涯の終焉に、彼の遺骸は大津へと送られ、その遺書に従って木曽塚に埋葬されました。
また、「近江八景」の地を詠んだ芭蕉の句には、
「辛崎(からさき)の松は花よりおぼろにて」
「五月雨(さみだれ)に隠れぬものや瀬田の橋」
「三井寺の門敲(たた)かばや今日の月」
「鎖(じょう)明けて月さし入れよ浮御堂」
などがありますが、八景の句すべてを数えることはできません。ただ、これらの名句によって近江湖南地方の持つ情感とその美しさは余すところなく表現されており、名作広重の錦絵や深水のシリーズなど、これらすぐれた文芸と美術を伴って「近江八景」は広く人々に記憶されることとなりました。
近江とわたし
1937年、満州大連に生まれたわたしは一年後に帰国、その後は母方の親族が住む神戸で育ちました。しかし時は大戦下、日に日に厳しくなる空襲の影響を受けて、小学校一年生で疎開を余儀なくされ、父方の縁故を頼って一人石山鳥居川町(現粟津町)に移り、晴嵐小学校に通い始めます。鳥居川は幻住庵にいた芭蕉が、風呂をもらいに友人宅までかなりの距離を徒歩で訪ねたと伝える「風呂街道」に当り、粟津に近い小学校は八景から借用した粋な校名を持っていました。
ところが、一年も経たずして空襲は石山にも及び、神戸の親族と合流してさらに山奥の上田上(かみたなかみ)桐生の里へ移りました。学校は今も残る平野小学校、現在滋賀県立近代美術館が建つ「びわこ文化公園」のすぐそばに位置しています。また、その近くに上田上中野があり、その里は母方の祖父が生まれ育ったところで、神戸の親族の中野姓はこの地の出自に由来し、父方は古くから石山を本拠としていました。結局三年生の夏に終戦を迎え、見渡す限り焼け野原の神戸に戻ったのは五年生のときでした。
近江との関係はこれ以後も続き、その数年前に満州から神戸へ引揚げていた父の都合で、高校二年時に再び石山へ移転し、粟津の膳所(ぜぜ)高等学校の学生となって、卒業までを過ごします。そして再び神戸に戻ったのは大学へ進学する直前のことでした。
このように、わたしの近江での生活は戦時下の子供時代と受験期のほぼ五年余りに過ぎませんでしたが、今思い返してもこの時期は豊かな体験に深く彩られています。ほんの一例ですが、泳ぎや伝馬舟(はしけ)の漕ぎ方を覚え、瀬田川のシジミ獲りや鮒寿司の作り方も教わりました。高校時代には演劇、フォアやエイトのボートに夢中となり、ヨット(ディンギー)の操作も覚えて湖面を存分に楽しむことができました。どちらかと言えば都会の神戸に比べ、さらに自然豊かな近江の方が、心のふるさととして強くわたしの記憶に残っているようです。
時が過ぎて、わたしは木版画を制作するようになり、広重や深水のみならず、多くの画家が湖南の風光を愛でる「近江八景」に手を染めていることも知りました。同じ志を持つ画家、版画家として、また近江に過ごした者として、このシリーズに挑戦したいと願ったのは、実は最近のことではなく、すでに二十年以上の歳月は流れています。名作も多いこの有名な主題に、無謀にも挑むことを長年夢見て、用意にも心を砕いてきましたが、最後の決心が中々つかず無駄に時が流れました。しかし、2009年春から今年にかける約二年の間に、全八点の制作をやっと終え、何となく今はほっとした気分で毎日を過ごしているところです。
(2011年3月)
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