Room1
2011.09.12

「庭の眺め」 南舘麻美子 展

2011年9月12日(月)-9月24日(土)

AM11:00-PM7:00(最終日4:00まで) 日曜休廊

「きのこの庭の眺め」

2011年 木版凹版メディウム剥がし摺り 48.5×46cm

 

庭の眺め
南舘麻美子

先日、実家の庭に植えてある大きな松から落ちた松笠より芽を出し、何年かかけて大きく育った松が、庭の手入れのついでに引き取られて行ったと聞いた。確か腰から胸くらいまでの高さには育っていたと思う。小さな芽のころから知っている松だけに、寂しい思いがした。
庭というのはそれぞれに思い入れや想い出があるに違いない。
以前部屋の中に居ながらにしての窓の存在をテーマとした展覧会を開いたが、今回の展示では室内の窓から外を少し覗いてみようと思った。
庭は個人の空間でありながら外界の始まりであり、公に接する場所である。
個人の空間である家、部屋から見る、始めて公の場とをつなぐ中間的空間である。部屋から眺める外。一歩外へ踏み出した時の始めの景色である。
庭を眺めるという事は内から外界への視線でもある。個人的空間である家、部屋から外界の一歩である庭を眺めてみる、もしくは一歩出てみる。それは個人の空間から他人と接する公の空間へ踏み出すという事でもある。
庭にはそれぞれ様々な景色が広がるであろう。陽光を受けた木々、ミツバチ、小鳥、芝。好きな花々や果実も植えているかも知れない。
子供の頃、小さな松も大好きだったが、私はひなぎくの花が庭で一番のお気に入りだった。父と母はそれぞれ好きなものを植え、休日に手入れを愉しんでいた。
ぼんやりと眺めたり、もの思いにふけったり、また様々な事を行う場所でもあるため、記憶や思い出も伴い、それぞれ眺めは違って来るだろう。
庭は自分自身の意思で好きな様にデザインをしたり、育てる事が出来る。家族の希望や共同作業が入ってくるが、少人数による個人的空間である。
それに対して、庭園は個人の物だけに留まらず多くの人の手が加えられ、思想が伴う場合が多い。
そして部屋の中の箱庭は完全に個人の空間である。部屋の中の箱庭を眺める行為は自分の作った個人的外界を部屋の中から眺めるという行為であり、視線というのは大きな空間を眺めるのとは違い、上からもしくは真横から世界を眺める視線である。好きな王国を作り、コレクションとしてしまっておく事も出来る。ポケットの中や箪笥の中の庭にだって出来る。
それに対し、他人の庭というのは皆どういう視線で見ているのであろうか。町並みの景観に影響する事もあり、庭は自分のものでありながら公のものでもあるとも考えられる。
他人のものであれ、個人のものであれ、人にとって重要なクッション材であり、眺める事により安らぎと美しさを与える、それが庭なのではないだろうか。
窓を開けて庭を眺めているという状況、窓を開けて庭に出てみたという状況と、庭の存在というものを、様々な角度から表現したい。